またまた、「無関係母子(笑)、授乳風景」シリーズ。この、以前もお話した(笑)、首里城公園駐車場裏手のゴミ捨て場から、「占有離脱物横領」してきたところの籐椅子は、わが家の、入口の、ドアを開けたすぐのところに配置されており、だから、帰宅した私に対して、ねぎらいの言葉をかけるどころか(笑)、おい、もっと静かに入って来い、びっくりするじゃないか?、とばかりに、不平をのべているらしい母。
この母の左目も白濁しているが、おそらく、先日手術を受けたカルテ名「コネコ」程ではないにせよ、やはり、角膜の表面に傷がついているのだと思われる。こうしてみると、かなりポピュラーな疾患であるらしい。当然、視力はかなり減殺されているはずだが、瞥見するところ、とくに日常生活に支障をきたしているようにも見えず、想像するに、他の感覚、例えば聴覚などが、充分にその「障害」をカバーしているようで、なるほど、さすがは猫である、なるほど、さすがは「自然」である、と改めて驚嘆を禁じ得ない。
しかし、子猫も大きくなった。この母の実子も一匹生き残っているが、出産時期はやや遅れるものの、こちらもぷくぷく太り、ほぼ同じくらいの大きさになっていて、もう、とっくに「乳離れ」の筈なのだが、ドライフードなどもバカバカ食べているくせに(笑)、まだこうして時々は、「甘えて」(笑)母乳を欲しがるようである。
もう一度、確認しておくが(笑)、母子であるか・ら・授乳する、のではない、乳を飲むものを「子」、乳を与えるものを「母」、と「定義」しているのである。語がそれによって定義されている事情を持って、「因」を想定するのは、イデオロギーである(笑)。つまり、こう定式化すれば分かりよかろう?
Aするものを、Bと定義する→Bであるから、Aする
ね、一目でわかる「循環」、トートロジーである。トートロジーは、いつでも正しい命題、恒真命題、だから、言っても全然かまわない(笑)、が、言う必要が、全然、ない。情報価値、ゼロ、である。情報とは、今まで知らなかったことで、新たに知見がつけくわえられるもの、定義上、そうなる筈だからである。となると、不思議なことが生じそうだ(笑)。「情報」であるためには、言ってみる必要があるためには、「常に真であるとは、必ずしも、いえない」ことが要求されることになってしまうのである(笑)。なるほど、私たちは、「嘘をつく」生き物、嘘をつかざるを得ない生き物、なのであった(笑)。
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