【痛恨の失言・・・】スタン・ハンセンに全日本移籍を決意させた新日本フロントの失言とは?そして心優しきハンセンから新日本プロレスへの驚きの置き土産とは? #プロレス #格闘技   #アントニオ猪木
1:名無しさん@おならいっぱい2023.05.31(Wed)

【痛恨の失言・・・】スタン・ハンセンに全日本移籍を決意させた新日本フロントの失言とは?そして心優しきハンセンから新日本プロレスへの驚きの置き土産とは? #プロレス #格闘技  #アントニオ猪木って動画が話題らしいぞ
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2:名無しさん@おならいっぱい2023.05.31(Wed)

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3:名無しさん@おならいっぱい2023.05.31(Wed)

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全日本プロレスの歴史の中で最大のサプライズといえば、やはり1981年12月13日の蔵前国技館の「スタン・ハンセン乱入」ではないだろうか。ライバル団体の新日本プロレスで大人気だったハンセンの乱入は、今も伝説として語り継がれている。

1973年にプロレスデビューしたハンセンは、その2年後に初来日し、全日本プロレスの興行に参加した。当時はほとんど注目されなかったが、1976年にWWWF(現WWE)に参戦すると、一躍スポットライトを浴びることになる。

無類の怪力とタフネスを誇り、「人間発電所」と呼ばれたブルーノ・サンマルチノの首を、得意技のウエスタンラリアットで折ったというニュースが世界中を駆け巡ったのである。
実際はハンセンがボディスラムで手を滑らせてしまい、その際にサンマルチノが首を強打したのが骨折の原因と言われているが、必殺技としてのウエスタンラリアットのインパクトは強烈だった。

そしてハンセンは、1977年からは新日本プロレスに参戦し、アントニオ猪木のライバルとして名勝負を繰り広げ、トップ外国人レスラーの地位を築いた。
通算で20回のシングルマッチを行っている両者だが、名勝負として思い出されるのは1981年4月23日に蔵前国技館で開催された、NWF世界ヘビー級王座戦だ。

当時の新日本プロレスは、最強王者決定戦「IWGP構想」を打ち出していた。真の世界一を決めるため、まず現行のタイトルをすべて封印し、返上する方針が取られた。
猪木の代名詞とまで呼ばれたNWF王座もその例外ではなく、このハンセンとの一戦を最後に封印されることになっていた。 

ファンが名場面として挙げるのは、試合前のシーンだ。リングの中央に猪木がガウンを置き、ハンセンも代名詞のテンガロンハットとベスト、ブルロープを置いた。NWF王座戦のファイナルにお互いのすべてを賭けようという猪木の心意気に、ハンセンも応えたのだ。

結果は12分56秒、体固めで猪木が勝利し、ハンセンのハットをかぶって勝ち名乗りを受けた。直後に猪木はこの王座を返上し、IWGP制覇に向けてハンセンとの新たな名勝負が繰り広げられていくものと思われたのだが……。

「あのハンセンが、なぜ日本でこんなに人気があるんだ?」と首を傾げていたのは、当時のアメリカのプロレス専門誌『レスリング・ニュース』の名物記者、ジョージ・ナポリターノである。
あくまでもエンターテインメントのショーとして見せるアメリカのプロレスと、強さでレスラーを見るという日本のプロレスの差だと思われるが、だからこそ、世界最強を決めるというコンセプトのIWGPにとって、ハンセンは絶対に必要な存在だったのだ。

しかし、このIWGP構想こそが、ハンセンを新日本プロレスから離れさせる原因となってしまった。猪木とハンセンが最後のNWF戦を行ったわずか15日後の1981年5月8日、川崎市体育館大会に、突如としてアブドーラ・ザ・ブッチャーが現れたのだ。
IWGP構想に賛同したブッチャーが移籍を決めたという体ではあったが、全日本から新日本への引き抜きがあったことは明らかで、これがいわゆる「外国人引き抜き戦争」の幕開けだった。

#プロレス #格闘技 #RIZIN #アントニオ猪木

4:名無しさん@おならいっぱい2023.05.31(Wed)

>>3 おつかれ。いつもありがと

5:名無しさん@おならいっぱい2023.05.31(Wed)

>>3 おつおつ

6:名無しさん@おならいっぱい2023.05.31(Wed)

>>3 ありがとう

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