【ついに猪木が馬場に負けを認めた】猪木・新日本vs馬場・全日本 15年にも及ぶリング外でのガチンコ抗争。猪木が馬場に「負け」を認めた瞬間とは? #プロレス #猪木  #長州力
1:名無しさん@おならいっぱい2024.04.27(Sat)

【ついに猪木が馬場に負けを認めた】猪木・新日本vs馬場・全日本 15年にも及ぶリング外でのガチンコ抗争。猪木が馬場に「負け」を認めた瞬間とは? #プロレス #猪木  #長州力って動画が話題らしいぞ
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1972年。猪木は3月6日に大田区体育館で新日本プロレス、馬場はその7ヶ月後の10月22日に日大講堂で、それぞれ旗揚げ戦を行なった。そして日本プロレスを離れてそれぞれが自分の団体を設立したこの1972年から、馬場と猪木のリング外での抗争が始まったのである。

全日本が旗揚げした直後は、圧倒的に全日本のほうが優勢だった。全日本がはじめから日本テレビをバックにつけて設立されたのに対し、設立直後の新日本にはテレビ放送がなかった。そして、外国人招聘ルートについても、ザ・ファンクスをはじめとするNWA、ブルーノ・サンマルチノとの個人的な関係でWWWFなど、馬場がアメリカの主要団体との強いつながりを持っていたのに対し、猪木にはアメリカで成功したとはいえないカール・ゴッチしかおらず、自前で外国人を育てていくしかなかった。

しかし新日本には、旗揚げ1年後の73年3月に救世主があらわれた。坂口征二である。のちに猪木が作った借金を返すべく新日本の社長として力を振るうことになる坂口だが、この時点で救世主といったのは、坂口が日本プロレスから新日本へ移籍することをきっかけとしてNETテレビが新日本の中継開始を決定したからである。

新日本のテレビ中継が始まったことで、徐々に形勢は逆転しはじめた。30代に入ったばかりで、レスラーとして全盛期を迎えていた猪木は、NWFヘビー級王座を軸としてタイガー・ジェット・シンやスタン・ハンセンらと数々の激闘を展開することで熱狂的な猪木信者を増やしていった。そしてこの時期の猪木は、雑誌や新聞を通じて、馬場に対して執拗に対戦を迫った。

だが、馬場はこの猪木の挑発を無視し続けた。そしてそれによって馬場には「猪木が怖くて逃げている」という負のイメージがつくことになった。両団体の看板レスラー同士が戦って、どちらが勝つにせよ決着がついてしまえば、負けた方は大きなダメージを受けてしまう。それがわかっていたから馬場は沈黙を続け、猪木もそれを承知の上で挑発を続けていたのだ。そして、仮に万一、馬場が対戦要求を本当に受けるようなことがあれば、シュートを仕掛けるつもりだったのかもしれない。

74年3月、猪木は、国際プロレスのエースだったストロング小林との大物日本人対決を制した。これを受けて猪木こそ「実力日本一」という声がファンやマスコミからあがり始めると、ついに猪木は馬場に対して内容証明付き公開挑戦状を送りつけた。

「テレビ、興行権、日時、場所、すべて任せる。立ちたまえ馬場君!男らしく勝負を決しようではないか」

だが、それでも馬場は動かなかった。猪木がすべての条件を譲歩しているにも関わらず闘おうとしない馬場には「猪木から逃げている」というイメージが完全に定着し、猪木の策略は成功したかに思われた。

#プロレス #猪木  #長州力

4:名無しさん@おならいっぱい2024.04.27(Sat)

>>3 おつかれ。いつもありがと

5:名無しさん@おならいっぱい2024.04.27(Sat)

>>3 ありがとう

6:名無しさん@おならいっぱい2024.04.27(Sat)

>>3 おつおつ

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